2022年3月19日、旧和歌山県議会議事堂で濱口梧陵偉業顕彰シンポジウムがありました。パネルディスカッションに参加することになり、蘭学医師と梧陵の関係、江戸末期から明治にかけて、近代医学・医療の発展に梧陵が果たした役割を説明することになりました。もう一度、梧陵と三宅艮斎、佐藤泰然、関寛斎、緒方洪庵、福沢諭吉との結びつきを調べてみました。やはり、年齢も近い濱口梧陵と三宅艮斎の関係がキーになっているように思います。
2018年2月10日、東金文化会館2階ホールで「濱口梧陵と関寛斎」という題で講演しました。このホームページの「濱口梧陵と感染症」(下にあります)を見ていただいた関係者から依頼されたものです。前回は、銚子での講演で、濱口梧陵を中心に近代医学との関連を見たものですが、今回は関寛斎とその関連した医学者、当時の蘭学と世界の医科学といった観点から見直しました。また、講演の後で、米国医のヘボン博士と蘭学の関係があるか否か?という質問をいただきました。ここに回答しておきます。
世界のコレラパンデミックの3回目の流行は、ペリーの艦隊が中国経由で長崎に寄港した際、乗組員がコレラに感染しており、長崎から江戸、東北まで3年間に渡り大流行を起こした。この数年前、1854年に「感染症疫学の祖」と言われる、ジョン・スノーがロンドンのコレラ流行の原因が汚染した井戸水により蔓延することを疫学調査(患者の分布と井戸ポンプとの関連)で明らかにし、これを統御したといわれている。感染症疫学始まりであった。
ヘボン博士の活動(wikipedia)
ジェームス・カーティス・ヘボン(James Curtis Hepburn、1815年~1911年)
ペンシルベニア州ミルトン出身の米国医療伝道宣教師・医師。
和英辞典『和英語林集成』を編纂(日本語表記法)。ヘボン式ローマ字の考案者。
安政5年(1858年)は、コレラの大流行で江戸では万を超す死者が出て、濱口梧陵(38歳)が関寛斎(28歳)をコレラ防疫のために江戸に送った年です。同年には「お玉が池に西洋種痘所」が開設されますが、年末に焼失しています。翌年の安政6年、1859年10月17日(安政6年9月22日)にヘボン博士(44歳)が来日し、やがて横浜で医療活動を始めます。宣教師デュアン・シモンズと共に、横浜の近代医学の基礎を築き、また、明治学院大学を創設し、初代総理に就任。聖書の日本語訳にも携わったことで知られています。
ヘボン博士の日本での医療活動
横浜の近代医学の歴史はヘボン診療所により始まったが、ほどなく、奉行所の嫌がらせもあり、診療所は閉鎖になった。専門は脳外科。当時眼病が多かった日本で名声を博した。1861年(関寛斎、佐藤尚中が長崎のポンペの長崎養生所で蘭医学を学修)、診療所閉鎖時に、ヘボン氏が米国に送った手紙によると、計3500人の患者に処方箋を書き、瘢痕性内反の手術、翼状片の手術、眼球摘出、脳水腫手術、おでき切開、白内障、痔、直腸炎、チフス治療を行ったとある(1861年9月8日の手紙)。1860年(万延元年)から足掛け2年で、これだけの症例をこなしたことになる。
具体的には、安政6年(1859年)9月に来日し、神奈川の浄土宗成仏寺を居に定めたヘボン夫妻は、1860年を迎えると近くの日本人と親交を結ぶようになった。キリスト教の布教は禁じられていたが、医療行為は黙認されていた。米国教会本部に宛てた書簡(1860年5月14日)では、「この数日間に4人の患者の手当をした。3人は番所の係の武士たちであった。簡単な手術を施したが、みな苦痛がとれ、とても喜んでいた」と書かれている。
評判を聞きつけ各地から治療を願う日本人が数多く訪れるようになり、1861年3月(文久元年)に宗興寺に施療所を移した。しかし、宗興寺施療所における医療活動開始半年後の9月、幕府から施療所閉鎖の命令が出た。ニューヨークの教会本部に送った書簡(1861年9月8日付)には次のように記されている。「わたしの施療所は閉鎖された。その歴史は短かく、5ヶ月間ばかりつづいただけです。最初患者はわずかでしたがまもなく非常に増加し、その後3ヶ月間は一日平均100人の患者を診察した。助手がいなかったのでほとんど満足な記録をつけることができなかったから、人数だけ申し上げるが、計3500人の患者に処方箋を書いた。それは毎回ちがった患者で延人員ではない。他の手術以外に瘢痕性内反(眼疾の一種。トラホームのためまつ毛が角膜に向い刺激する症状)の手術30回、翼状片の手術3回、眼球摘出が1回、脳水腫の手術5回、背中のおでき切開1回、白内障の治療13回、痔瘻の手術6回、直腸炎1回、チフス治療を3回行った。そのうち1回だけ白内障の手術はうまくいかず、他はみな上出来であった。」https://www.meijigakuin.ac.jp/about/history/history.html#E
こうしてみると、ヘボン博士の医療活動は、それまでのオランダ医学とは関係なく、ペリー来航(1853年)、日米和親条約(1854年)、日米修好通商条約(1858年)、横浜開港(1859年7月1日)を受けてからの活動ということになり、伊藤玄朴・高野長英(1824年~29年、シーボルト)や佐藤泰然・三宅艮斎(1835~38年、ニーマン)、あるいは松本良順、佐藤尚中、関寛斎(1857~1861年、ポンペ)といったオランダ近代医学とは別系統です。
「濱口梧陵と感染症」
銚子市で濱口梧稜のシンポジウムがありました。濱口梧稜は銚子にゆかりの深い偉人で、ヤマサ醤油の7代目の当主でした。実業家、篤志家、政治家その他いろいろな顔を持っています。私は「濱口梧稜と感染症」という少し変わった題で講演を依頼されました。スライドを見ていただければ、彼の生きた時代の感染症と医療、濱口梧陵の人脈とその功績がわかります。非常に興味深い人です。
濱口梧陵(文政3年6月15日(1820年7月24日) - (明治18年4月21日(1885年)は、紀伊の国の広村(現・和歌山県有田郡広川町)出身の実業家であり、社会事業家、政治家として活躍しました。また医学や公衆衛生とも深く関わっています。
梧陵というのは雅号で、字(あざな)は公輿、諱(いみな)は成則です。醤油醸造業を営む濱口儀兵衛家(現・ヤマサ醤油)の当主で、七代目濱口儀兵衛を名乗りました。梧陵は津波から村人を救った物語『稲むらの火』のモデルとして世界的に知られています。
梧陵は紀州の湯浅の醤油商人である濱口分家・七右衛門の長男として生まれ、12歳で本家(濱口儀兵衛家)の養子となり、銚子に移りました。家訓で主人であっても優遇せずに、丁稚や小僧と寝食を共にする慣習があり、そうした生活をおくったと思われます。濱口家は、銚子で醤油醸造業を、江戸で金融業を営む豪商でした。
梧陵は江戸に上り見聞を広め、開国論者となりました。文武の修行に励み、特に三宅良斎の影響を強く受け、西洋事情を学びました。三宅良斎は1838年に佐藤泰然らと江戸薬研掘で「和田塾」を開き蘭医として活躍しています。梧陵との出会いは1841年(天保12年、梧陵21歳、良斎25歳)です。「蛮社の獄」(天保10年)などで江戸に居にくくなった良斎に銚子での開業を勧め、良斎は1842年銚子で開業します。梧陵は良斎の医院を訪れ、西洋事情などいろいろ学んだようです。良斎は1844年に一時佐倉に住みますが、1845年奥州を訪れ、1848年に江戸に戻っています。
梧陵は1850年(30歳)、銚子に帰郷し、事業を行いました。嘉永6年(1853年:梧陵33歳)、七代目濱口儀兵衛を相続しました。濱口儀兵衛は代々、銚子と広村を往復して、家業の経営を行っています。また、嘉永5年(1852年:梧陵32歳の時)、同業の濱口東江(吉右衛門)・岩崎明岳(重次郎)とともに紀州広村に稽古場を設立し、人材の育成をはかりました。のちに(1866年)この稽古場は「耐久舎」(現在の和歌山県立耐久高等学校)と命名されました。
稲むらの火は、安政元年11月5日(1854年12月24日)夜、安政南海地震の津波が広村に襲来したとき、濱口梧陵は自身の田にあった藁の山に火をつけ、安全な高台にある広八幡神社(ひろはちまん)への避難路を示す明かりとし、村人を誘導し、9割以上を救った(死者30人)と言われています。 http:/www.ja.Wikipedia.rog/wiki/濱口梧陵
https://www.google.co.jp/search?q=広八幡神社+広川町
梧陵はさまざまな社会事業を手がけましたが、とくに医学への支援には厚いものがあります。
濱口梧陵の支援と影響を受けた一人が、関寛斎です。寛斎は1856年(安政3年)、佐藤泰然の推薦により、銚子で医院を開業し、濱口梧陵の知遇を得ました。当時流行していたコレラ(1858年:梧陵38歳)の防疫に意を傾けていた梧陵は、関寛斎を江戸の西洋種痘所(お玉池種痘所、後の東京大学医学部)に赴かせ、伊東玄朴、三宅艮斎(ごんさい)の下でコレラの予防法を学ばせ、銚子でのコレラ防疫に業績をあげました。
また、1858年(安政5年11月15日)、西洋種痘所(お玉が池種痘所)が焼失すると、翌1859年に梧陵は、種痘所の再開のために300両を寄付しました。濱口梧陵傳によると、図書及び機械類の購入費のため更に400両を寄付したとされています。また、梧陵は関寛斎を経済的に支援し、1860年(万延元年)に長崎に留学させています。蘭学医・ポンペ・ファン・メーデルフォルトのもとで、 1年間学んだ寛斎は、1862年(文久2年)春に銚子に戻りました。梧陵は寛斎に長崎での留学を続けるよう勧めましたが、寛斎は翌1863年(33歳)、徳島藩の藩医となり徳島へ移住しました。寛斎は後に梧陵の勧めに従わなかったことを悔いたといわれています。
梧陵は1862年に出版された医学書『七新薬』(司馬凌海著、関寛斎校)の出版に関わる費用を援助するなど、日本の近代医学の発展にも深く関わっています。
http://togetter.com/li/516601(江戸の地図とお玉が池)
新七薬はポンぺの講義を記述したものです(朋百:ポンぺ講述)。語学に優れた司馬凌海が翻訳し、関寛斎が校閲しました。内容は、ポンペの説により7種類の新薬をとりあげて、それぞれの健康作用と薬効を紹介したものです。7種の新薬は沃てん(ヨード)、硝酸銀、酒石酸けんこう、規尼(キニーネ)、珊篤尼(サントニン)、莫非(モルヒネ)、肝油です。まず薬を健康人に使用し、その作用(健康作用)を説明してから、病気に対する作用機序を述べるという順に説明されています。
関寛斎を梧陵に推薦した佐藤 泰然の名は信圭(のぶかど)で号は紅園、泰然は通称です。現在の神奈川県川崎市で誕生しました。文化元年(1804年) - 明治5年4月10日(1872年5月16日)。現在の順天堂大学の基礎を作った人です。天保元年(1830年、26歳)に蘭方医を志し、足立長雋(ちょうしゅん)や高野長英に師事しました。しかし、満足出来ず、天保6年(1835年:泰然31歳)に長崎に留学し、三宅良斎と出会います。長崎ではオランダ医のニーマンに医学を習っています。
天保9年(1838年、34歳)に江戸へ戻り、両国薬研堀に「和田塾」を開きました。天保14年(1843年)、佐倉藩主堀田正睦の招聘で佐倉に移住(39歳)し、病院兼蘭医学の塾「佐倉順天堂」を開設しました。
その治療技術は当時の最高水準を極めていました。泰然の高弟であった関寛斎の「順天堂外科実験」にその手術例が詳しく記載されています。「療治定」によると卵巣水腫開腹術、割腹出胎術があります。嘉永4年(1851年)には、日本初の「膀胱穿刺」手術に成功し、他にも乳癌手術、種痘など蘭学の先進医療を行うとともに医学界を担う人材を育成し、順天堂は緒方洪庵の適塾とならぶ有名蘭学塾となりました。嘉永6年(1853年)、町医から佐倉藩の藩医となり(49歳)、文久2年(1862年)佐倉を離れ、横浜に移住し、明治5年(1872年)東京下谷茅町(現・台東区池之端)で死去しました。享年69歳でした。
http://www.city.sakura.lg.jp/sakura/sfc/100rokekensaku/20103jyuntendou.htm
佐倉順天堂記念館
関寛斎(文政13年2月18日(1830年3月12日) - 大正元年(1912年)10月15日))は、蘭方医。上総国山辺郡中村(現在の東金市)の農家の子として生まれました。13歳の時に関俊輔の養子になります。養父の儒家である関俊輔に薫陶され、18歳で(1848年、嘉永元年)佐藤泰然の起こした「佐倉順天堂」に入門、佐藤泰然の書生になり下働きをしながら蘭医学を学びました(各地を廻って牛痘接種をしたと日記に記しています)。4年間を順天堂で修行し、佐藤泰然の手術助手を務め、その間の臨床事例や、施術、患者の様子などを記述した「順天堂外科実験」を残しています。この時期に、林洞海、三宅良斎にも学んでいます。
後で述べるように、当時、種痘術(種痘ワクチン)は、人痘法から、より安全な牛痘法への転換期にあり、寛斎は身をもってその歴史を体験しました。1852年、俊輔の希望もあり帰郷し、12月25日、君塚あいと結婚します。1856年、寛斎26歳の時、佐藤泰然の推挙により銚子荒野村(現:銚子市輿野)で開業しました。ここで、有力者であるヤマサの濱口梧陵の知遇を得ました(寛斎26歳、梧陵36歳、泰然52歳)。
安政5年、江戸は安政コレラの大流行(1858~59年)で、万を超す死者が続出。梧陵は地域のリーダーとして銚子への波及を恐れ、関寛斎に対し、西洋種痘所へ出向き、防疫法を学び薬品等の資材を手に入れるよう求めました(関寛斎、28歳)。先に述べたように、1858年11月、種痘所が焼失したとき、濱口梧陵は種痘所の再建を支援しました。梧陵の求めに応え戻った寛斎は、梧陵と力を合わせて防疫に努めた結果、「銚子地方は、コレラの大流行を来さずしてすむに至りき」という成果をあげました。蘭医学は経験的にコレラを「原因は一種の毒質にして…鼻及び口より体中に入る」として、環境の清潔、飲食への配慮などの予防対策を勧めていました(1884年にコッホがコレラの病原体としてコレラ菌を同定、コレラ菌の発見は1854年、イタリア人医師フィリッポ・パチーニによります)。
https://www.google.co.jp/search?q=Filippo+Pacini
佐藤泰然のもとで寛斎が記録した『順天堂外科実験』、ポンペに学んだ『朋百(ポンぺ)氏治療記事』『七新薬』は、当時の医学に関係する第一級の資料でした。関寛斎は徳島藩の典医、戊辰役には官軍の病院長を務めました。その後、徳島に帰り、町医者として庶民の診療、種痘奉仕などに尽力。72歳で北海道陸別町の開拓事業を開始するも、志しを果たせず、1912年(大正元年)82歳服毒自殺をすることになりました。
泰然、良斎、梧陵、寛斎の関係を見ると、佐藤泰然と三宅良斎は長崎で出会います。島原生まれの良斎は14歳(1830年)で長崎に出ています。泰然は1835年(26歳)で蘭医学を学びに長崎にきて良斎と出会い、終生の付き合いになります。二人は1838年に林洞海、岡南洋、島田玄礼らと江戸にもどり、薬研堀で開業します。その後1842年に良斎は銚子で開業しています。1840年に結婚した梧陵は江戸と銚子で良斎から西洋事情などの教えを受け、終生の師と仰いでいます。
泰然は佐倉で1843年に佐倉順天堂を開設し、のちに佐倉藩の藩医となります。1844年に良斎は佐倉にきますが、出羽の国に赴き、1848年に江戸にもどります。同年の1848年に関寛斎が佐倉順天堂に入門します。江戸(お玉が池種痘所1858年)よりもずっと早く、1849年に牛痘苗が佐倉順天堂に導入され、房総での種痘が始まりました(関寛斎の牛痘接種日記)。1856年泰然が寛斎に銚子で開業を勧めます。ここで梧陵が寛斎の支援を始めます。寛斎は江戸の伊藤玄朴、三宅良斎らを訪ね、またのちに長崎留学を勧められます。
1858年6月に開設された江戸のお玉が池種痘所は、半年後の1858年12月に焼失します。落胆する伊藤玄朴に西洋種痘所の再建を進め、濱口梧陵から300両の資金を獲得したのは三宅良斎であったようです。
https://www.google.co.jp/search?q=長崎出島、蘭学
日本のオランダ医学(蘭学)を振り返ると、1823年にシーボルト(27歳)がオランダ商館医員として着任し、24年に鳴滝塾を設立した当時、伊藤玄朴、高野長英らが学んでいます。シーボルトの第1回目の日本滞在は1828(1829)年で終わります。次いで1830年にニーマン(34歳)が来日し、オランダ商館長として1835年から1838年まで務めています。このときの門下生に佐藤泰然、三宅良斎がいます。ニーマンは医師ではなく、泰然の医学は楢林栄建、足立長雋(ちょうしゅん)に学んだようです。1857年には軍艦ヤバン号(後の咸臨丸)でポンぺが来日し、オランダ医学を教えます。ポンぺは幕府に要請し、「長崎養生所」を開設します(1861年、文久元年)。関寛斎はこの時(1860年~61年)、長崎に留学しています(のちに『朋百(ポンぺ)氏治療記事』を残す)。ポンぺは5年間日本に滞在しています。1859年にはシーボルトが日本に再来日しています。シーボルトは、1861年には幕府に呼ばれて江戸にも来ています。1862年に帰国しました。
コレラの話の前に、種痘について少し話します。牛痘接種法がわが国に伝来し、初めて成功したのは嘉永2年(1849年)です。1849年には佐藤泰然は45歳で既に佐倉順天堂を開設して6年、濱口梧陵は29歳で、和歌山に帰郷する前の年で江戸にいます。関寛斎は19歳で、佐倉順天堂に入った翌年になります。
新しい種痘法の流れは長崎からひろがり、9月日野鼎哉が京都に種痘所を、11月緒方洪庵が大阪に除痘館を設立しました。広島の三宅春齢、福井の笠原良策らにより西日本には急速に種痘が普及しました。岡山では、1850年初頭に緒方洪庵が足守除痘館を設立しました。
江戸は幕府直轄の地であるが故に種痘に反対する漢方医が勢力を持っていたため、種痘は蘭方医各自が細々と行うのみでした。しかし効果はだれもが認めるところとなり、シーボルトの教えを受けた江戸在住の佐賀藩藩医 伊東玄朴(1800-1871)が中心となり、蘭方医82名が資金を拠出して牛痘伝来9年後の安政5年(1858年)にお玉ケ池種痘所(江戸で初の種痘所、西洋種痘所)を設立しました(この年に濱口梧陵が関寛斎を江戸に送っています)。種痘の効果が絶大であることから当初私設の種痘所は1860年官立(幕府立)となり、西洋医学所→医学所→大学東校→東京医学校と名称を変更し、その後東京大学医学部に発展しました。 http://image.search.yahoo.co.jp/searchp= %E5%AE%98%E7%AB%8B%E7%A8%AE%E7%97%98%E6%89%80
天然痘(感染症法の1類感染症)について簡単に説明します。非常に強い感染力を持ち、全身に膿疱を生じ、治癒しても瘢痕(あばた)を残します。世界中で不治、悪魔の病気と恐れられてきた代表的感染症です。強い感染力と高い死亡率(約40%)のため、時に国や民族が滅ぶ遠因となりました(インカ文明、アステカ文明など)。
疱瘡、痘瘡ともいわれます。医学界では一般に痘瘡の語が用い られました。古くは、エジプトの王・ラムセス5世(前1145 - 1141年)のミイラから天然痘の痕跡が確認されています。①人にしか感染せず(種の特異性が強く、人以外の動物がウイルスを保有することがない、)、②1度かかれば2度と罹らない、強固な免疫ができます。③瘢痕(あばた)が残り感染、非感染の識別が可能です(誰にも罹ったことがあるかないか分かる)、④そして、ジェンナーのワクチンが非常に有効であったため、天然痘ウイルスは撲滅され、天然痘はなくなりました。1980年にWHO(世界保健機関)から撲滅宣言が出されました。
ジェンナーの種痘までのワクチンの歴史を振り返ると、BC600年頃に中国で痂皮(かさぶた)を鼻腔に接種する経鼻伝痘法が確立・普及したという(人痘接種法)記録があります。この方法は、その後中近東、欧米でも行われましたが、ヒト由来の天然痘ウイルスなので死亡率は1~2%と高いリスクがありました。568年、メッカのElephant戦争で、エチオピア兵が天然痘で全滅しました。569年には、アバンシュの司祭 Mariumが「斑点がある」という意味のラテン語「Varius」からVariola(天然痘)と命名しました。910年 Al-Razi (イラン)が天然痘に関する論文を記述し、麻疹と天然痘の鑑別診断法を記載しています。10世紀の中国(江蘇省)で、膿疱が比較的少ない症例から瘡蓋を採取し、乾燥した瘡蓋を8粒、ユリ科の植物2粒を小児鼻に吹き込む(死亡率1%未満)方法が開発されました。
その後、スペインが米大陸に天然痘を持ち込む(文明の滅亡:1507年カリブ諸島、1520年メキシコ、1524年ペルー、1555年ブラジルなど)ことになりました。中国の人痘接技術は、1652年頃に戴曼公により日本に伝えられ、朝鮮やロシアにも伝えられました。ロシアからトルコに伝えられ、1717年には英国の駐トルコ公使モンターギュ夫人の子供に人痘接種が行われています。その後、夫人の紹介により英国に人痘術が伝えられました(1721年頃)。1796年 ジェンナーが牛痘ワクチン(ワクチニアウイルス)の接種を試み、成功しました。こうして種痘ワクチンが世界中で用いられるようになりました。
ジェンナーの偉業について簡単に話します。世界中で不治の病気として知られていた天然痘を、英国の医師エドワード・ジェンナーが牛痘にかかった人は天然痘に罹らないことを知り 、1796年少年に牛痘の膿を接種したところ、その少年は天然痘に罹りませんでした。これが「予防接種」の始まりとなりました。具体的にはサラ・ネルメスの手にできた牛痘の病巣(ジェンナーの調査では16症例目になります)を、1796年に使用人の子供ジェームス・フィップスに接種したところ、彼は天然痘の発症を免れました。種痘の接種により天然痘に対して免疫になったのです。
ワクチン (Vaccine)という言葉は、ラテン語の「Vacca」(雌牛)に由来しています。パスツールが種痘法を確立させたエドワード・ジェンナーに敬意を表し、その種痘法発見のもとになった<雌牛>のラテン語 Vaccaから命名されたといわれています。現在、種痘ワクチン株の由来は牛痘ウイルスではなく、 野生齧歯類由来のワクチニアウイルスか?馬痘か?と言われています。
その後、ルイ・パスツールが病原体の培養を通じて病原体を弱毒化すれば、その接種により疾病を免れるという理論的裏付けを与え、ワクチン開発(家禽コレラワクチン、炭疽ワクチン、狂犬病ワクチン)への 応用の道を開きました。パスツールもまた天才といえます。
20世紀の天然痘根絶への歴史をたどると、以下のようになります。
1901年 Calmette, Guerin がウサギ皮膚での天然痘ウイルスワクチンの力価測定法を開発しました。なお、Calmette, Guerinが開発したワクチン、Bacillus Calmette, Guerin 、BCGは、結核のワクチンです。
1926年 国際連盟(League of Nations)の世界検疫会議で日本代表が天然痘をペスト、コレラ、黄熱と同様、届出伝染病に入れることを提案しましたが、天然痘は世界中に存在するとスイスが反対しました。このとき、天然痘流行の場合のみ届出(折衷案)るという安になりました。
1936年 F.M. Burnet (のちに免疫学、クローン選択説でノーベル賞を受賞)が鶏卵漿尿膜のポック数をカウントすることでウイルス力価がわかることを示しました。
第二次大戦後、1953年 世界保健機関(WHO)事務局長Brock Chisholmが天然痘根絶計画を提案しましたが否決されました。代わりにマラリア対策が採択されました。1954年 耐熱性天然痘ワクチンが実用化(L.H. Collier)されました。
1959年には、WHO総会でソ連代表Victor Zhdanovが天然痘根絶を再提案し、採択されました。1965年に世界中で根絶計画が開始され、1977年に最後の患者(ソマリア)が確認され、1979年根絶を確認し、1980年5月8日に根絶宣言がだされました。人類が初めて世界中から根絶したウイルスが天然痘ウイルスです。
話をコレラに戻します。日本で初めてコレラが発生したのは、最初の世界的大流行(1817年~1823年)が日本に及んだ1822年(文政5年)です。感染ルートは朝鮮半島あるいは琉球からと考えられていますが不明です。九州から東海道に及びましたが、この時は箱根を越えて江戸に入ることはありませんでした。2回目の世界的流行(1826年~1837年)は、運よく日本への波及は免れました。
しかし、3回目(1840年~1860年)は日本に達し、1858年(安政5年)から3年にわたり大流行となりました。九州から始まり東海道に及んだものの、箱根を越えて江戸に達することはなかったという文献が多い一方、江戸だけで10万人が死亡したという文献も存在します。しかし、死者数については過大で信憑性を欠くという説もあります。
前述したように、1858年(安政5年)に、濱口梧陵はコレラの銚子への波及を恐れ、関寛斎に対し、西洋種痘所へ出向き、防疫法を学び、医薬品等の資材を手に入れるよう求めました(関寛斎28歳、濱口梧陵38歳、佐藤泰然54歳です)。
当時、流行の原因は相次ぐ異国船来航と関係しており、コレラは異国人がもたらした悪病であると信じられ、中部・関東では秩父の三峯神社や武蔵御嶽神社などニホンオオカミを眷属(神の使者?)とし憑き物落としの霊験を持つ眷属信仰が興隆しました。眷属信仰の高まりは憑き物落としの呪具として用いられる狼遺骸の需要を高め、捕殺の増加はニホンオオカミ絶滅の一因になったとも考えられているほどです。
この時代の医学的理解からコレラを見てみましょう。「虎狼痢治準」は緒方洪庵が
1858年(安政5年)に著しました。安政5年の秋、大坂でコレラが大流行した際、洪庵が緊急出版したのがこの本で、コレラの治療指針書です。モスト『医家韻府』(1836年版)、コンラジ『病学各論』(同)、カンスタットの治療書(1848年版)の記述をふまえコレラの治療法を示しています。
コレラは当時、さほど認知されていた病気ではなく、医者たちも有効な治療法がわからず困リ果てていました。当時は、コレラについて医者たちが頼るものは、幕府が招いていた外国の医師ポンぺの治療法か、洪庵が訳し写本などの形で広まっていた『扶氏経験遺訓』の中のコレラの章くらいでした。扶氏経験遺訓(ふしけいけんいくん)は、緒方洪庵がドイツ・ベルリン大学の教授フーフェランドの内科書 "Enchiridion Medicum"(医学必携)のハーヘマンによるオランダ語訳を重訳したもの(1857年、安政4年出版、全30巻)。多くの医者は実際の治療法として伝わってきたポンぺの治療法を頼りましたが、その治療法はキニーネ(マラリアの特効薬)を使うものであり、キニーネ(マラリアは原虫、コレラは細菌とその毒素が原因なので効きません)が不足し出回らなくなりました。
『虎狼痢治準』は、こうした状況を打開しようと、洪庵が急遽対策書として世に出したものです。洪庵の経験則を交え症状や治療法が詳しく解説されていました。治療法の見いだせない多くの医者にとってはコレラの治療指針ともいえるものであり、社会への貢献度は高かったと言えます。
日本でコレラが流行し、緒方洪庵や伊藤玄朴らが種痘の接種を全国的に流布した時期の世界の感染症統御の動きを見てみましょう。この時期は細菌感染症の統御を本格的に試みた時です。感染症の原因が病原体(病原細菌など)の感染、増殖により起こること、細菌を弱らせたり、不活化して接種し、免疫を獲得すれば感染しないということが徐々に理解されてくる時代です。石炭酸を用いた消臭薬から消毒へ、そして消毒薬から不活化ワクチンへの発想にと変化していきます。経緯を簡単に振り返ってみます。
① Samuel W. Cole(米国獣医師)が、「家畜疾病:1840年」の中で、炭疽にかかった牛の膿を接種すると感染症から免れる(免疫になる)と記述(英国での流行)しています。
②イグナッツ・フィリップ・ゼンメルワイス(Ignaz Philipp Semmelweis、1818〜1865)は「産褥熱は接触感染の病気であり、医療従事者に手の消毒(塩素水)を義務づけることで発症率を激減させることができる」ことを証明しました。ゼンメルワイスがこのことを発見したのは1847年で、ウイーン産科病院の産婦人科部長であった時です。
③約20年後、 1866年に、リスターは、傷口を細菌から守るため、複雑骨折の治療に石炭酸を使用し、良好な結果を得ました。
④そして、1880年、トウッサン( Toussaint)は、石炭酸による炭疽菌の不活化と、不活化ワクチン の製造を始めます。ルーとシャンベランが重クロム酸カリ不活化ワクチン研究を進めました。
⑤パスツールは弱毒生ワクチンを研究、1881年、不活化ワクチンで炭疽ワクチンの公開実験に成功しました。パスツールは家禽コレラ、炭疽、狂犬病と矢継ぎ早に弱毒生ワクチンの開発研究を行いました。
最初に紹介した「稲むらの火」の安政南海地震が1854年(梧陵34歳)、コレラ流行で関寛斎を江戸に送ったのが、安政5年(1858年、梧陵38歳)ですから、②のゼンメルワイルから③のリスターの頃の間に入ります。今でいえば、院内感染(特に外科手術)の防御に消毒薬が有効ということが理解された時代です。まだ、感染症の原因としての病原微生物の発見、同定にはいたっていません。パスツールが「白鳥の首フラスコ」を用いて、微生物が自然発生するものではないことを証明したのが、1861年(万延2年、文久元年)です。
ところで、現代科学で明らかにされたコレラ(Cholera) とは?どのような感染症でしょうか?
コレラ菌:コレラはコレラ菌(Vibrio cholerae)を病原体とする経口感染症です。コレラ菌は、コンマ状の形態の桿菌で、鞭毛により活発に運動します。従来、アジア型(古典型)とエルトール型が知られていましたが、1992年に新たな菌であるO139が発見されました。
コレラ菌の特性:感染力が強く、アジア型は高い死亡率を示し、ペストに匹敵する危険な感染症です。ペストが齧歯類とノミの間で維持されているのと異なり、コレラ菌は自然界ではヒト以外に感染しません。流行時以外のコレラ菌の生存については、海水中、人体に不顕性感染の形で存在する、あるいは甲殻類への寄生が考えられていますが、明らかではありません。
感染経路と症状:重要な感染源は、患者の糞便や吐瀉物に汚染された水や食物です。消化管に入ったコレラ菌は、胃の中で多くが胃酸のため死滅しますが、少数は小腸に到達し、ここで爆発的に増殖してコレラ毒素を産生します。コレラ毒素の作用で細胞内の水と電解質が大量に流出し、いわゆる「米のとぎ汁様」の猛烈な下痢と嘔吐を起こします。
予防・治療法:直接の死因は大量の下痢と嘔吐による水と電解質の損失による脱水です。水と電解質の補給ば極めて有効。コレラ罹患時には脱水のみならず消化管を休めることが大切なので、絶食と水分経口摂取禁止が基本です。重症例では、点滴による静脈内輸液、抗生物質は脱水症状の改善とは無関係。Vibrio choleraeの菌体数を減らし、毒素産生を減らす効果があります。点滴治療と組み合わせテトラサイクリン系やクロラムフェニコールが利用されます。
コレラの症状を引き起こす毒素がコレラトキシンです。コレラ菌(グラム陰性桿菌)は一般の腸内細菌に比べ、胃酸への抵抗性が弱いのですが、胃の切除者、制酸薬服用者には殺菌効果が期待できません。細胞膜上のGM1(糖脂質)に結合したコレラトキシンのBサブユニットが細胞膜に孔を開け、Aサブユニットを細胞内に送りこみます。AサブユニットはADPリボシル化酵素活性を持ち、NADのADPリボースをG-蛋白に転移します。G-蛋白がリボシル化されると結合したGTPをGDPに加水分解できず、活性化が維持され、アデニル酸シクラーゼがcAMPを作り続けます、そのため腸管の細胞内cAMP濃度が上昇し続けます。その結果細胞膜の水分透過性が亢進し消化管から大量の水分が漏出し激しい下痢を起こします。脱水症状の結果、循環障害や腎不全を起こします。
これらは現在も、アジア、アフリカ、中米など世界中で発生しています。
振返ってみると、浜口梧陵の活躍した時代の日本では、天然痘のワクチン(種痘)の導入、コレラの流行の時期でしたが、海外では塩素や石炭酸(クレゾール)による殺菌法の開発、不活化・弱毒生ワクチン開発と、感染症の原因が病原微生物であり、感染症をどのように統御するか?その対抗策が開発されつつあった時代です。抵抗性の獲得に抗体や免疫が関与することがわかるには、もう少し時間が必要でした(北里柴三郎やベーリングによる抗毒素血清療法)。
おまけ:テレビドラマの「仁、JIN」に史実とは違いますが浜口儀兵衛として登場します。韓国でもリメイクされ人気を博しました。どちらも見ましたが、面白かったです。御清聴有難う御座いました。